星野仙一監督と言えば楽天ファンとしては2013年シリーズで胴上げされていた「あのシーン」が今でも思い出されるんじゃないかな?
こわーいイメージの星野仙一元監督だけどエピソードがとにかくすごかった!
「燃える闘将」「巨人キラー」「オヤジ転がし」など様々な呼び名まであったんだ。
今回は星野仙一元監督のエピソードから人物像に迫ってみよう!
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星野仙一エピソード!『燃える闘将』と呼ばれた男
マウンドではだれよりも闘志をむき出しにしたプレーで観客を沸かせ、監督になってからは鉄拳制裁や檄が飛ぶ。
まさに昭和の雷オヤジのイメージが強い星野仙一元監督。
その勝利への執念からついたあだ名は『燃える闘将』だったよね。
星野仙一氏の監督時代はどんな風に勝利を導く勝負師だったのかエピソードを紹介しよう!
星野仙一エピソード『燃える闘将』が誕生したのはいつ?
野球選手を引退してから野球解説者や野球評論家として活躍していた星野仙一氏。
その時は『柔和な笑顔』と『的を得たコメント』で大変な人気者だったんだ。
中日からのオファーを受け1987年に中日の監督に就任するとその表情は一変!
「年収が何分の1になっても、俺は現場に帰る。」と周囲に告げて、一気に闘将モードに入った星野仙一元監督。
監督就任の記者会見で「笑ってください」と記者からのリクエストに、「これから戦場に行くのに笑えるか。」と記者を怒鳴りつけてしまったみたいなんだ。
正論だけど、その場にいたみなさんが震え上がったろうなー・・・。
勝負の世界に入った途端、一切の甘えを排除する勝負師星野仙一らしいエピソードだね。
星野仙一エピソード「勝負師魂と鉄拳制裁」
負けたときには『すぐ足が出る』ことで有名だった星野仙一元監督。
いわゆる鉄拳制裁のイメージそのままだね。
負けた後食事にいくと、最初楽しく食べていても急に「あそこでピッチャー変えたほうがよかったかな」と考え椅子をけるんだとか(笑)
乱闘などが起こると必ず出ていき、中日時代は乱闘に出ていかなかった選手には罰金を科していたとも。
往年のプロ野球珍プレー好プレーでは必ず『エキサイト』という言葉とともに放送されていたよね。懐かしい!
ただ審判員には事前に断りを入れたりしていたみたいで、あくまで勝負師の役に徹していただけだったみたい。
だから星野仙一氏の素顔をよく知る人はみんな『役者だった』って言うんだって。
あくまでチームの士気を高める、プロフェッショナルの姿も垣間見えるお話だね。
星野仙一エピソード!選手時代から貫くアンチ巨人の姿勢
プロ入り時のドラフトで入団を約束されたけれど、実際には指名されずに中日に入団した星野仙一氏。
そこから始まるプロ野球選手としての人生はまさに『アンチ巨人の旗印』としての歩みだったんだ。
自他ともに認めるその強烈な執念に彩られた星野仙一エピソードを紐解いていくよ!
星野仙一エピソード『恐怖の新人』だった!
プロ2年目、当時23歳の投手、星野仙一エピソードは特に強烈なんだ。
巨人戦でリリーフ登板して逆転ツーランを浴び負け投手になってしまったときのこと。
あまりの悔しさに一睡もできず、翌日監督室のドアを叩いて「今日、もう一度先発で投げさしてください。どうしても巨人に仕返ししたいんです!」と直訴したんだとか。
今の野球選手でそんなエピソード聞いたことないよね。
しかも投手コーチに「投げさせっ! 投げささんと、もう帰ってしまうぞ。もう投げんぞ!」なんて思い切り脅迫したらしいんだよ!もしも、そんな恐ろしい新人が会社にいたら・・・!
これも有名なThe星野仙一エピソード!
もう、どうしたらいいかわからなくなっちゃうよね。(笑)
星野仙一エピソード『闘志むき出しの巨人キラー』
星野仙一氏は巨人への闘志むき出しのピッチングと全盛期の巨人相手に35勝31敗と勝ち越した実績から
「巨人キラー」と呼ばれるようになったんだ。
特に王・長嶋を擁する巨人の10連覇を阻んで『胴上げ投手』となったことがあったんだ。
その実績から沢村賞を獲得したことは有名なエピソードだね。
この時の優勝祝賀会で、「日本シリーズは邪魔、巨人に勝ったからもういいんや。」と
言うほど巨人への執着はすごかったんだ。
まさに巨人への反骨精神の塊っていう印象を抱くエピソードだね。
星野仙一エピソード!『爺キラーぶりを発揮する』
トヨタ自動車の元会長の奥田氏・日本郵政の初代社長の西川氏など政財界の大物を含め、幅広い交友関係を持つことで知られていた星野元監督。
時にはオヤジ・キラー、じじいキラーと揶揄されたことも。
マウンドでの強面な表情を考えると意外な気がするよね。
星野仙一本人はどう思っていたんだろう?
星野仙一エピソード『甘え上手な一面』を生んだ大学時代
星野元監督曰く、年輩者に甘えるのがうまい部分については認めていたんだ。
これには生い立ちが深く関係しているみたい。
「僕が生まれる前に父が他界したことと関係していると思います。
親父がいなかったから、年輩者に親父を求める部分があったのでしょう。
いい意味の甘えを発揮していたのかもしれません。」
星野監督は雑誌のインタビューにこう答えていたんだよね。
また大学時代の恩師である島岡氏の影響が大きいようで、大学時代にチームのキャプテンを務めながら、監督の付き人兼運転手もしていたことがあるんだとか。
そのころから周囲へ気配りして、相手の気持ちを常に読んだ行動を心掛けていたみたい。
そりゃあ可愛がられるよね。苦労を有意義な経験に変える姿勢だったんだね。
星野仙一エピソード!『三冠王落合を手に入れたまさかの大作戦』
中日監督時代の1986年に巨人へのトレードが有力視されていた落合を逆転で獲得したときのこと。
落合をライバルに獲られたら優勝が厳しくなると考えて、星野監督はまるでスパイ大作戦のような動きをしたんだ。
加藤オーナーや中山球団社長に直談判で獲得を承諾させ、系列グループの新聞社の記者に巨人や落合の動きを徹底的に調査させたんだ。
その情報をもとに交渉を開始。最終的に1対4の大型トレード成立までこぎ着けたんだ。
普段から財界やマスコミ関係者とも積極的に交流を図ってきた星野仙一のエピソード『政治手腕』もう脱帽だね!
星野仙一エピソード!『親分肌で選手の面倒見がいい』
選手の入団会見を見ていると、選手の近くに座って見守ったり時には助け船のようなコメントを出したりと、
監督という立場ながら選手への手厚いサポートを常にしていた印象の星野仙一元監督。
お姉さんによると子供の時から親分肌で揉め事があると星野を呼べって言われ、出かけていっては問題を解決していたんだって。
本当に頼りになる監督だったんだね。厳しい中にも愛情にあふれた監督時代だったんだ。
星野仙一エピソード『幼いころからの面倒見が良かった』
星野仙一元監督の『漢気』は小学生のころからすごかった!
同じ学年に“筋ジストロフィー症”を患う友人がいたんだそう。
幼き日の星野元監督は、その友人をおんぶして毎日学校に通っていたんだとか。
三つ子の魂百までとはまさにこのことだね!
このエピソードはのちに「星野君と定金君」というタイトルで道徳の教科書に採用されたんだ。
野球人でありながら野球以外のことで、しかも小学生の行動が教科書に載るなんてスーパーレジェンド!
これも星野仙一エピソードだよね。
星野仙一エピソード『周囲が惚れる気配りができる男』
いつでも選手から裏方、記者のことまで考える気配りの人だったと多くの人が語る、星野元監督の人柄。
選手の妻や両親に誕生日プレゼントを贈ったり、テレビ出演のギャラを球団のバッティング投手や用具係、
スコアラーなどの裏方にそっくり渡したというエピソードもあるんだ。
周囲の人の趣味趣向をびっしりメモするマメな性格だったようで、プレゼントを贈るときは自らカタログ片手に何がいいかと悩んでいたんだとか。
「自分できちんと選ぶ、そうすることで単なるお疲れさんの贈り物ではなく
心が届くんだ。」
こうした心遣いが一流なのも星野仙一エピソードなんだよね。
星野仙一エピソード!『野球を愛し抜いた生涯』
持ち前の行動力と発信力で野球のために常に走り回っていた印象の星野元監督。
野球場の外でもその行動は常に注目の的だったよね。
なくなった今でも生きる、星野仙一元監督の意思が垣間見えるエピソードを紹介するよ。
星野仙一エピソード『野球をオリンピック種目に復活させるために奔走』
星野仙一元監督は北京五輪で日本代表チームの監督も務めているのはよく知られているよね。
IOC委員長をもてなす船上パーティーが行われた時のこと、星野仙一元監督はあらゆるツテを頼って、その船内にもぐり込んだんだ。
それは北京オリンピックを最後にオリンピック種目から外されてしまう野球の競技について委員長と話をするためだったんだ。
「オリンピックから野球をなくさないでくれ!」まさかその想いだけで要人が集まる場で直訴!なんて普通ではとても考えられないよね!
これも星野仙一エピソードとしては有名な話なんだ。
星野仙一元監督は一切憶することなく日米で野球がいかに愛され定着した競技であるかを説明して、「オリンピックの企業スポンサーをもっとも集められる両国民をガッカリさせたら盛り上がらなくなる」と強く訴えたんだ。
委員長はしっかりと話を聞き「検討してみる」と回答をして、後にIOC総会で見直しの再提議まで行われたんだからすごいの一言だよね。
こうした星野仙一元監督の行動力が東京オリンピックの野球・ソフトボールの復活への礎になったんだ。
まるでドラマだ。エピソードが常に熱い・・・!
星野仙一エピソード『すべての子供たちへ野球を届けたい』
星野仙一元監督が旅立つ少し前、野球くじの導入について意見を述べていたんだ。
そこにはこんな考えが根底にあったんだ。
「オレはな、野球をやりたい子供たちに環境をつくってあげたいんや。
そのためには財源が必要なんだ。
キャッチボールをやろうにもグラウンドがない。
社会人野球はどうなっとる? 休部や廃部……。
今は企業がお金を出せる時代じゃない。
じゃあ、プロ野球がやらなきゃいかんだろう。
そこにはプロもアマもない。だってオレたちもアマチュアの卒業生じゃないか。」
なんとしてでも、野球のすそ野を広げたい。
野球離れを憂うだけでなく、状況を好転させるために歩みを止めなかったんだ。
野球界殿堂入りを果たした際、「野球と恋愛してよかった。もっともっと恋したい。」と語った星野仙一元監督。
その野球への愛情が意志として受け継がれていくことが、今星野仙一元監督が何より望んでいることなんじゃないかな。
まとめ~っ
野球への熱い情熱と究極の負けん気。
厳しさの中に潜む、気配りと愛情深さ。
怒っているようで、実は冷静な計算で周囲の人と環境を動かすクレーバーさ。
星野仙一元監督のエピソードは常に熱く、まるで3人分くらいの人生を凝縮したかのような、濃い人生の持ち主だったんだね。
楽天イーグルスの中にも星野チルドレンと呼ばれる選手たちを応援するときは、さらに気持ちがこもっちゃうんだよね!
これからも星野仙一元監督に代わって、星野チルドレンにも大きな声援を届けよう!!